漫才コンビ「内海桂子・好江」として人気を集め、女性漫才師の第一人者として活躍した漫内海桂子さんが多臓器不全のため、お亡くなりになったことがわかりました。
97歳でした。
昭和を代表する女流漫才師の大御所の突然の訃報に悲しみの声の広がっています。
今回の記事では、 内海桂子さんの壮絶な若い頃、夫との馴れ初めや結婚生活、子供、弟子などをまとめました。
目次
内海桂子のプロフィール
名前:内海桂子(うつみけいこ)
本名:安藤良子
生年月日:1922年9月12日
出身地:東京都台東区浅草(銚子市生まれ)
血液型:A型
所属事務所:マセキ芸能社
故内海好江さんと「内海桂子・好江」を結成し、三味線を肩に掛け、時事ネタを取り入れたテンポのある漫才で人気を博しました。
漫談やテレビのコメンテーターとしても活動。
漫才協会の初代会長を務め、若手漫才師の育成に尽力しました。
16歳で漫才の初舞台を踏んでから女性芸人としてお笑い界を引っ張ってきました。
内海桂子の若い頃から現在まで!
内海桂子さんは現役最高齢芸人記録を更新し、現役芸人として今日まで君臨してきました。
これまでの人生を振り返ってみようと思います。
若い頃の経歴
内海桂子さんの父親は深川の籐(とう)職人、母は本所の理髪店の娘でした。
両親が20歳の時に駆け落ちし、大正11年、銚子市で内海さんは生まれています。
1923年に関東大震災に遭遇し、その後父親が蒸発したため、母親と共に祖父の家で暮らします。
その後母親は再婚するのですが、借家の家賃20円が払えなかったことで、内海桂子さんは小学校を3年生で中退し、蕎麦屋に子守奉公に出たのです。
年季は5年の予定でしたが、奉公先で頭にケガを負わされ、2年足らずで家に戻ることになった内海桂子さんは、母親に『ひとりで生きていくには何か芸事を身につけなさい』と言われたことから、三味線と踊りを始め、芸を磨きます
それなりに三味線も踊りもできるようになった内海桂子さんは、漫才師・高砂家とし松さんから声がかかり、地方巡業を回ったり、浅草橘館で漫才初舞台を踏みます。
とし松さんとのコンビは、代役のつもりが3年以上も続きました。
その中で、とし松さんとの間に子どもができ、19歳で長男を出産。
17年にはとし松とのコンビを解消。
その後、戦時色が強くなる中、「三桝家好子」の芸名で、漫才の舞台をこなし、満州などの外地へも慰問に行ったそうです。
音曲漫才コンビ『内海桂子・好江』で大ブレイク
1950年、マセキ芸能社が出来た年、
当時14歳の内海好江さんを弟子に取り、コンビを結成。
その後、第1回NHK新人漫才コンクールで優勝できずショックを受けた好江さんが自殺未遂するなどありましたが、1958年の第4回NHK新人漫才コンクールで優勝後は数々の賞を受賞。
そして功績が称えられ、1982年に漫才師としては初の『芸術選奨文部大臣賞受賞』を受賞しました。
その後、好江さんは辛口の批評が人気を集め、テレビのコメンテーターとして活躍するようになります。
テレビのバラエティーとはなじまない桂子さんとは次第に距離が生まれ、「2人は仲違(なかたが)いした」という風評が立ち、コンビの芸を見る機会は激減していきました。
そんな’97年、相方の好江さんが61歳という若さで亡くなってしまいます。
好江さんが病死してからは、ピン芸人として活躍する傍ら、漫才協団会長を務めています。
内海桂子の夫は成田常也
内海桂子さんは1999年の77歳の時、成田常也さんと結婚し、出雲大社で挙式しています。
晩婚な上に、年齢差24歳の年下婚ということでも世間の注目を集めました。
年の差が24歳もあることから、同居を開始した当初は「成田常也さんは遺産狙いじゃないか?」という声が上がり、周囲は結婚を猛反対したそうです。
しかし、次第に成田常也さんの誠実ぶりが家族に認められ、同居から15年が過ぎた1999年に2人は晴れて夫婦となりました。
内海桂子さんと成田常也さんの馴れ初め
77歳の時に結婚した内海桂子さんですが、夫・成田常也さんとの出会いは1987年で、内海桂子さんが64歳・成田常也さんが40歳未婚だったそうです。
当時アメリカの航空会社に勤めるエリートだった成田常也さんは、アメリカで開催されていた『日航寄席』という演芸会の日本から芸人を呼ぶ仕事を任されていました。
成田さんは子供の頃から「内海桂子・好江」の大ファンだったようで、
「憧れの内海桂子好江コンビは、いつか呼んで生で芸を見てみたい」
と出演を依頼したのがきっかけで出会いました
成田常也さんは内海桂子さんに電話し、その後自宅を訪問したそうです。
結局アメリカでの公演は実現しませんでしたが、それから成田常也さんの手紙攻撃が始まり、1年間で300通、毎日のように届いたそうです。
そして、最後の1通に成田常也さんからのプロポーズの言葉が書かれていたのですが、内海桂子さんはアメリカでは暮らせないと断ります。
普通ならここで諦めますが、成田さんの情熱は少しも衰えることなく、
「ならば私が東京に行きましょう」
と、アメリカの会社を辞めて1989年に日本へ帰国し、家具会社の社長室長の仕事につき、翌1990年から同居を始めたのです。
その後、1992年から内海桂子さんのマネージャーになり、仕事のサポートをしています。
また、家では主夫として家事全般をこなし、内海桂子さんを支えました。
お二人のロマンスエピソード、とても素敵ですね。
成田さんの愛情が溢れています。
内海桂子の子供は何人?
成田常也さんと結婚した時、すでに77歳だった内海桂子さんは、夫である成田常也さんとの間に子供はいません。
ですが成田さんとの結婚前に、未婚で出産しています。
先程も少し触れましたが、最初の子供は16歳の時にコンビを組んだ 高砂家・と志松さんとの子供で、わずか19歳という若さで長男を出産しています。
そして次の子供は、1946年にコンビを組んだ林家染団治一門の林家染芳さんとの子供で、24歳の時に長女を出産しています。
長男はすでに亡くなっているそうで、病床での最後の言葉が成田常也さんに『母をよろしく』とお願いしたそうです。
子供は2人でしたが、孫が6人、ひ孫は7人いるそうです。
内海桂子の弟子
今をときめくお笑い芸人たちの師匠でもある内海桂子さん。
漫才協会会長も務め、若手の育成にも尽力しました。
ウッチャンナンチャンやナイツの育ての親としても有名でしたね。
ナイツの愛ある師匠イジりは最高ですよね。
それだけ若手芸人に愛された人柄だった桂子師匠でした。
まとめ・・・
お笑い界の重鎮、内海桂子さんの若い頃・夫・子供・弟子などをまとめました。
突然の訃報に悲しみの声が広がっていますが、人生を全うした大往生だったのではないかと思います。
今頃天国で好江さんと再会し、漫才をされているのかもしれません。
心よりご冥福をお祈りいたします。