この記事では、
・【窓ぎわのトットちゃん】校長先生(小林宗作)はどんな人?
・校長先生(小林宗作)の生い立ちや経歴まとめ
についてお伝えします。
目次
【窓ぎわのトットちゃん】
校長先生(小林宗作)はどんな人?
女優、タレントとして活躍する黒柳徹子さんが手掛けた
『窓ぎわのトットちゃん』
『窓ぎわのトットちゃん』は黒柳徹子さんの自伝的物語で、徹子さんが小学生の時に実際に通った「トモエ学園」が舞台です。
教師やクラスメイトも実名で登場する、ノンフィクション作品になっています。
1937年4月、東京都目黒区自由ヶ丘2丁目15番地に開校した、
「私立トモエ学園」
トモエ学園では、明治期から続いていた画一的な教科書やテストを中心とした教育スタイルではなく、
子どもたちが実際に体験して自分の力で学んでいくことを大切にし、子どもが本来持っているそれぞれの可能性を見出して伸ばすことに力を注いだ新しい教育に取り組みました。
その中で特に斬新だったのは、「リトミック」教育です。
リトミックとは・・・
楽しく音楽と触れ合いながら、基本的な音楽能力を伸ばすとともに、身体的、感覚的、知的にも、これから受けるあらゆる教育を充分に吸収し、それらを足がかりに大きく育つために、子どもたちが個々に持っている「潜在的な基礎能力」の発達を促す教育。
リトミックは、作曲家・音楽教育家であるエミール・ジャック=ダルクローズが、
- どうしたら音楽を耳ではなく ”心で聞き、感じる”ことを子供に教えらるか?
- 生気のない教育でなく、動きのある生きている音楽をどう感じてもらえるか?
- どうやって子供の感覚を目覚めさせれるだろうか?
ということを考えて創作したリズム体操がリトミックです。
今では幼児期の習い事で人気のあるリトミックですが、昭和初期の小学校でリトミック教育を初めて取り入れたのが、トモエ学園の創立者であり、校長先生であった小林宗作先生でした。
小林宗作先生は「日本におけるリトミックの第一人者」と言われています。
トットちゃんと小林先生との出会い
トットちゃんは初め、普通の小学校(尋常小学校)に入学しました。
しかし、
- 授業中もお喋りばかりしていて、先生に対して変わった質問ばかりする
- 授業中に机のふたを何回も開けたり閉めたりしたりする
- 授業中に席を立って窓の外を眺める
- 窓の外を歩く人に声をかける(チンドン屋を呼ぶ)
- 教室の屋根の下に巣を作っている燕に話しかける
などなど、他の子とはちょっと違った行動をする子供でした。
そんなトットちゃんは「問題児」扱いをされ、
小学校1年生の時に「退学」させられてしまいました。
困った母親は、
『あの子の性格がわかってくれて、
みんなと一緒にやっていく事を教えてくれる学校』
はどこかにないかと、あっちこっち駆けずり回って探しました。
そして見つけたのが「トモエ学園」です。
初めて母親と2人で訪れたトモエ学園の校長室。
そこでトットちゃんは小林先生に会いました。
小林先生はトットちゃんと2人で話がしたいからと母親を帰します。
『さあ、なんでも先生に話してごらん。
話したい事、全部』
そこからお喋りが大好きなトットちゃんは、小林先生に語りだしました。
その間小林先生は、笑ったり、頷いたり、身を乗り出して一生懸命聞いてくれました。
そして、トットちゃんの話が全部終わると、
『じゃ、これで、君は、この学校の生徒だよ』
と告げました。
当時、時計が読めなかったトットちゃんでしたが、
母親と学校に来たのが朝の8時で、トットちゃんの話が終わった時に時計を見ながら小林先生が「お弁当の時間だな」といったことから4時間もの時間が過ぎていたことがわかります。
トットちゃんはこの時、小林先生といると、
安心で温かく、気持ち良くなりました。
生まれて初めて、
本当に好きな人に出会い、ずっと一緒にいたい
と思ったそうです。
ユニークな教育が満載なトモエ学園
トモエ学園は全校生徒約50人という、当時では珍しい児童数が少ない小学校でした。
(トットちゃんが1年生の時はクラスメイトが9人しかいませんでした)
トモエ学園の教育環境や教育は実にユニークなモノが多く、
- 教室や図書館に電車の車両を使っていた
- 1時間目が始まると先生がその日にやる課題を黒板に書き、好きなモノから出来る
- 席が決まっていなく、好きなところに座る
など、子どもたちの興味や個性を尊重した教育方針でした。
また、校外学習も盛んで、
午前中にクラス全員がその日の課題を終えると午後からはみんなでお散歩にいきました。
お散歩中、きれいなお花をみつけると、
「どうしたらお花が咲くか分かる?」
と先生が疑問を投げかけ、
おしべとめしべを観察したり、受粉するには昆虫がお手伝いしてることなどを知り、
また、散歩の途中で出会う農家の人に野菜の収穫のやり方を学んだり、
学園の近くにあった九品仏のお寺に行って歴史に触れたり・・・
と、子供達にとって自由で遊びの時間だったと思っていた「散歩」は、実は、
生物や歴史を肌で感じて学ぶ貴重な「校外学習」でした。
「君はほんとうはいい子なんだよ」小林先生の言葉
小林先生はトットちゃんを見かけるといつも、
「君は、ほんとうはいい子なんだよ!」
と声をかけてくれました。
そう言われたトットちゃんは、
「そうです!わたしは、いい子です!」
とニッコリ笑顔で答えました。
トットちゃんはみんなに親切だったし、
他の学校の子にいじめられた友達を守ったり、
ケガした動物を必死で看病したりと、
とてもお思いやりのあるいい子でした。
しかし、そのいい子の半面、前の学校でもそうだったように、
自分の興味があることを見つけると、自分の好奇心を満たすためにビックリするような事件を起こし、先生方を驚かせました。
しかし、事件が起きても小林先生は親を呼び出すことはしませんでした。
じっくり話を聞き、言い訳も聞いて、
本人が悪いことをしたと納得したら謝る
学校で起きたことは、先生と生徒の間で解決してくれたのでした。
これはトットちゃんだけではなく他の生徒でも同じでした。
しかし、トットちゃんが事件を起こす度、
小林先生の耳には、生徒の父兄や先生たちから苦情や心配の声が届いていたに違いありません。
だから小林先生の「ほんとうはいい子なんだよ」の言葉の
「ほんとうは」の意味には、
君はいい子じゃないと思われてるところがあるけど、
君のほんとうの性格は悪くなくて、いいところがあって、
校長先生はちゃんとわかっているよ。
という小林先生の想いが込められていました。
小学生だったトットちゃんには深い意味は分からなかったのですが、
トットちゃんの心の中には、
「わたしはいい子なんだ」
という自信がつきました。
「窓ぎわのトットちゃん」のあとがきで黒柳徹子さんは、
この言葉が、どんなに、私の、これまでを支えてくれたか、計りしれません。
もし、トモエに入ることがなく、小林先生に会わなかったら、私は、おそらく、
なにをしても「悪い子」というレッテルをはられ、コンプレックスにとらわれ、
どうしていいかわからないままの、大人になっていた、と思います。
と、綴っています。
小林先生の教育方針は、
どんな子も、生まれた時には、いい性質を持っている。
それが大きくなる間に、いろいろなまわりの環境とか、大人たちの影響で、
スポイルされてしまう。
だから、はやく、この『いい性質』を見つけて、それをのばしていき、
個性のある人間にしていこう。
引用:窓ぎわのトットちゃんより
というものでした。
どんな個性だろうと「ありのままでいいんだ!」と自信をもてたトットちゃんと、ありのままを受け止め「いい子」だと伝え続けた小林先生。
もし、トモエ学園に入っていなかったら・・・
小林先生に出会えていなかったら・・・
後年の黒柳徹子という人物の活躍はなかったかもしれませんね。
校長先生(小林宗作)の生い立ち・経歴まとめ
■1893年 (明治26年)6月18日 群馬県吾妻郡岩島村
農家の6人兄妹の三男(末子)として誕生。
昭和初期に長姉が嫁いだ金子家の養嗣子(家督相続人となる養子)になり、
本名は金子 宗作(旧姓:小林)
仕事や著作活動では旧姓の小林を用い続けた。
南東に榛名富士を仰ぎ、北に吾嬬山を背負った美しい山村で育った宗作少年は、小さな頃から音楽が好きで、家の前の川のほとりで指揮棒を振って遊んでいたそうです。
■1899年 – 吾妻郡三島小学校入学。
■1907年 – 三島小学校高等科卒業後、しばらく代用教員を務める。
小学校教員生活の第一歩を踏み出しました。
■1911年 – 教員免許取得
音楽好きの宗作少年は音楽の教師になるために教員免許を取得。
上京し、牛込小学校の先生をしながら、音楽の勉強をする。
■1916年 – 東京音楽学校乙種師範科入学
23歳の時、現在の東京藝術大学音楽部に入学。
昔の東京音楽学校は少人数の英才教育を行なっていて、乙種師範科は14名入学で2名しか卒業できなかったくらい非常に厳しかったそうです。
■1917年 – 東京音楽学校卒業。公立小学校の音楽教師に
■1920年 – 成蹊小学部の訓導として音楽教育に傾倒
成蹊小学校は、1915年(大正4年)中村春二氏よって創立された私立学校です。
中村春二氏の教育方針は、
教育は小学校からやらなければ!
生徒数は多くても1クラス、30人!
自由な教育、子供の個性を尊重に徹底する!
というものであり、
授業は午前中で終り、午後は近郊へでかけ植物採集や昆虫採集、写生、遊戯をしたり、歌をうたったり、教師の話を聞いたりと、
後のトモエ学園で小林先生が行った授業方法でした。
成蹊小学校での経験は小林先生に大きな影響をもたらしました。
■1923年 – ヨーロッパ留学
「子どもたちがのびのび育つ中で、
このいくらでものびる子供を充分に指導するに足る器であるか」
教師としての自分の限界に悩んでいた小林先生は、
30歳の時にヨーロッパ留学を決心します。
そんな中、成蹊学園の理事であった三菱財閥の岩崎小弥太男爵が、小林先生が生徒の為に作ったオペレッタに感動し、ヨーロッパ留学の全額だしてくれることになりました。
留学先で当時国際連盟事務次長だった新渡戸博士に会った時、
スイスの音楽家、ダルクローズのリトミックを学ぶことを勧められ、パリの学校で1年間直接ダルクローズからリトミックを学びました。
その他いろいろな学校を視察したりしながら、
2年間の留学を終え、日本に戻ってきました。
■1923年 -様々な学校で教鞭とる
帰国後、
- 石井漠舞踊研究所
- 東洋英和女学院
- 国立音楽学校
などで教鞭をとりながら、
幼稚園論で意気投合した小原國芳氏と成城幼稚園を創ります。
小林先生は、
子どもを先生の計画にはめるな。
自然の中に放り出しておけ。
先生の計画より子どもの夢のほうが、ずっと大きい。
引用:窓ぎわのトットちゃんより
と言い、従来の幼稚園にはない新しい幼稚園を創りました。
■1930年 – 再び渡欧
実績を積み重ねた小林先生は、もう一度リトミックを勉強する必要があると考え、37歳の時に再度ダルクローズのもとへ。
■1937年 – 「トモエ幼稚園」「トモエ学園」を創立
渡欧から1年後に帰国。
自由が丘学園の小学校が経営難で売りに出たことで、小林先生は思い切ってその土地と校舎を購入し、理想の学校をつくりたいと、「トモエ学園」を創立しました。
■1945年 – 空襲で学園焼失
東京大空襲でB29の飛行機から落とされた爆弾は、トモエ学園を炎に包みました。
燃えている学園を見ながら長男で当時大学生だった巴さんに
「今度はどんな学校を作ろうか」とつぶやいたそうです。
学校の名前と長男の名前は同じく「トモエ」です。
小林先生が教えたリトミック教育は、
「調和のとれた人間教育のひとつとしての音楽教育」であり、
そのシンボルマークは心身両面の調和を指し示す二つ巴です。
この二つ巴はトモエ学園の校舎につけられていました。
巴(トモエ)という言葉を小林先生が大切にされていたことがよくわかります。
因みに小林先生には4人のお子さんがいました。
奥様は豊子さんといい、長野県伊那市にある峰山寺の娘だったそうです。
■1950年 -さくら幼稚園を設立し初代園長
終戦後、さくら幼稚園を設立し初代園長に。
他にも国立幼稚園の園長や国立音楽大学講師、トモエ幼稚園など教育現場で活躍。
■1963年 -死去
脳溢血で突然に倒れ、1963年(昭和38年)2月8日、死去されました。
享年69歳でした。
戦後の混乱の中、トモエ学園のような小学校を創る前に亡くなられてしまったことは、本当に残念です。
■1988年-トモエ学園跡地に記念碑が建立
トモエ学園の跡地は、
旧「ピーコックストア自由が丘店」
現「自由が丘 デュ アオーネ」
になっています。
「ピーコックストア自由が丘店」がまだあった1988(昭和63)年、
- 自由ケ丘学園小学校
- トモエ学園小学校
の同窓生らの寄付金によって記念碑が建立されました。
私たちこの地に学び育まれた者は、ここに行われた教育が、
時をこえて生き続けることを願い、恩師への敬愛と感謝の思いを込めて、
この碑を建てる。
本当に愛された学校、
みなさんに愛された小林宗作先生だったんだなと痛感します。
まとめ・・・
この記事では、
についてまとめました。
トモエ学園のような、子供の個性が伸び伸び育つ学校が・・・
小林先生のような温かくありのままの自分を受け止めてくれる先生がいたら・・・
年々増えている登校拒否やひきこもりの子供なんていなくなるんでしょうね。
小林先生の思いや理念がもっともっと広がって欲しいなと思いました。